「磨く」

時折り、10数年前に書いたブログと向き合うことがある。10数年に書いた自分がそのブログを読んでどのように感じるかをフェイスブックにあげるが、文章面でも、心の面でも自分の成長が乏しいことを突き付けられているようで、「振り返り」としては厳しいものを感じる。
特に感性は10数年前の方が洗練されているように感じる。心の面はと言えば特筆すべき成長があったと感じることがない。そんなものなんだろう。

先週は高校の授業、大学院の授業(学ぶ側)、おとな塾4箇所と目の回る忙しさであった。そして日曜日はひもろぎ苑で巨大な倉庫の骨組みを立てた。
毎日「切磋琢磨」である。「切磋琢磨」(せっさたくま)とは学問や人徳をよりいっそう磨き上げること。また、友人同士が互いに励まし合い競争し合って、共に向上すること。「切」は獣の骨や角などを切り刻むこと。「磋」は玉や角を磨く、「琢」は玉や石をのみで削って形を整える、「磨」は石をすり磨く意。(「磋」は「瑳」とも書く。)と言う意味だ。

「学問と人徳を磨きあげる」。「磨く」と言うことをもう少し掘り下げなければ本当の意味はわからないかもしれない。例えば「砥石」。日本には、ヨーロッパや中国大陸と違って、きめの細かい「砥石」があったおかげで世界で最も鋭利な日本刀が生まれたと聞く。中国やヨーロッパと異なり、ぶった切る。ではなく「斬る」のである。日本刀の進化に、砥石がある。とはあまり気がつかない。

「切磋琢磨」。自分の気がつかないところで自分を磨いてくれる人が存在しているのかもしれない。また、逆に自分もそんな存在なのかもしれない。出来事も同様であると感じる。忙しいが自分がやる気になっていると体が動く。簡単なことでもめんどくささを感じたら体は動かない。思うように言うことを聞いてくれない生徒も、遅々として進まない修士論文も、ひもろぎ苑での作業も自分にとっての「砥石」なのだろう。

高山曜三