「おのれをおのれたらしめるもの」

前回は「孤独」について書いた。「孤独状態において人間は自分の存在などについて考えることを強いられ、その結果創造性、想像力などにつながる」と、だから「孤独」はネガティブなものではないと書いた。

若いころは「夢なき者に理想なし」という吉田松陰の言葉通り、「情熱」にこそ「自分の存在」があると信じて行動した。50歳を過ぎ、妻を亡くした時、正確に言えば彼女の余命を医師から聞かされた時から、私が生き残こるのはどうしてだろうか。にぶちあたった。そして、だからこそ、これから自分の背負うものは何かを考えた。

坂村真民先生の
「おのれが尊いのではない。
おのれをおのれたらしめるものが、
おのれのなかにあるから尊いのである。
だからこのおのれたらしめるもの
を見出さなくてはならぬ。
自覚しなくてはならぬ。
そのことなくしては、
人は人としてのねうちがあるとは言えない。」

と言う詩がある。
「おのれをおのれたらしめるもの」
私は、いまだこれを掴んでいない。いや、これを掴むために一生をかけるのかもしれない。生き方は、「おのれたらしめるもの」の具現だとすれば、私の場合、「塾」も、「ひもろぎ苑」も「NPO」も存在する。だからすでに自分は「おのれたらしめるもの」を掴んでいなければならない。しかし、自分はまだまだ掴んではいないように感じる。それ故「自覚しなくてはならぬ」と言う言葉があるのだろう。

自問自答する。
今なぜこの職についているのか。今なぜこんなことをしているのか。そして「おのれをおのれたらしめるもの」は掴んでいるのだろうか。

高山曜三