「知足」と「不足」次は「満足」

名古屋の地下街を久しぶりに歩いた。少し歩くだけなのに疲れる。「ひもろぎ苑」での作業と疲れ方が全く違う。地下街を歩く時、どうしても人を避けながら歩く、また人の動きに目がいく、日頃使っていない気を使うから疲れるのかもしれない。あるいは、完全にアスファルトで舗装された道を歩くからなのか。いずれにしても日ごろは入ってこない情報をいれるから疲れた気持ちになるのだと思う。

菜根譚に「すべて眼前に来(きた)ることは、足るを知る者には仙境(せんきょう)、足るを知らざる者には凡境(ぼんきょう)なり。」(慨訳 目の前にあるすべてのことは、満足することを知っている者には理想の世界である。だが満足することを知らない者にとっては、世俗の世界にすぎない。)とある。

高校生の時「高瀬舟」を読んだ。「知足」の言葉は森鴎外の「高瀬舟」の中で罪人喜助の生活を聞き、役人庄兵衛が自らの生活を振り返る。罪人ではあるが、喜助の足るを知る生活に敬意を持つ。「高瀬舟」は「安楽死」のテーマを持った作品であるが、高校生の時の私には、「知足」「不足」の方が目からうろこ状態であったのを覚えている。

なかなか「知足」(足るを知る)となる人はいない。「不足」のことを書き連ねればあっという間に10くらいはかける。満足していることを書くとなるとは結構考えてしまう。

60歳にもなると、あまりモノや人間関係には「不足」を口にすることはなくなった。いい意味で「あきらめ」を知った。カッコよく言えば、「諦観」だろう。逆に自分の至らなさにいらだつ。まさしく「不足」を感じる。

再来週には「大阪おとな塾1」「大阪おとな塾2」「名古屋おとな塾1」「名古屋おとな塾2」と4つのセミナーといつもの高校の授業がある。受講生・生徒の学ぼうとする情熱をどれだけ引き出せるか、そして寄り添えるか、これは「知足」でも「不足」でもない。
次は「満足」を考えなければ。

高山曜三