喫茶店に行きコーヒーを飲んでいたら、いつもついてないのにチョコレートが付いているのに気づいた。いやしいから、ついているならと食べてしまってからなぜ付いているのかを考えた。読んでいた週刊誌に「バレンタイン」と見出しがあるので初めて気づいた。
公立高校に勤めていた20代前半は、生徒からもらったチョコレートをもちかえると母がよく食べていた。私立の学校へ変わってからは男子校なので生徒からのチョコレートはなくなった。かわりに女子事務員の人たちからもらえた。家に持ち帰ると妻が食べていた。だから御返しは妻が買っていた。
最近は貰えないから忘れたのか、興味がないから忘れたのかは分からないが遠い昔を思い出すだけとなった。何でも取り入れる日本は「クリスマス」「バレンタイン」「ハロウィン」など、何でもお祭りとしてしまう良い意味で柔軟な国である。柔軟なのはいいが自分たちが基本となる日本という国をあまり知らないのが気にかかる。新たに日本人が「春節」だと言って騒ぎだしている。
故坂村真民先生の詩
おのれが 尊いのではない。
おのれを おのれたらしめるものが、
おのれのなかに あるから尊いのである。
だからこの おのれたらしめるもの を見出さなくてはならぬ。
自覚しなくてはならぬ。
そのことなくしては、 人は人としての
ねうちがあるとは言えない。
まさしくその通りだ、「おのれたらしめるもの」「日本人たらしめるもの」考えて身につけなければ。
高山曜三