ひもろぎ苑への第1歩(回想 1)

昨夜は久しぶりにNPOの仲間と会議をした。私は金曜日午前、午後と名古屋鯱城学園で講座。その後、大坂へ移動して大坂おとな塾。翌日の昨日は企業研修を14時~17時までして帰ってきた。そして、昨夜20時~会議となった。

体は疲れていたが、JRや新幹線での移動時間で25年前ひもろぎ苑に着手した時のことを思い出していた。

当時のひもろぎ苑は地元では有名なやくざみたいな人の持ち物だった。聞けばその人は外国の人だと言う。たくさんの人から止められた。なぜその土地に執着したのかと言えば、この土地が国定公園の中にあり借地であるということ。建物は廃屋になっているから欲しいとは言わないだろうと思ったからである。必要なのは立ち退いてもらうのにかかるおカネだけだと思ったからである。

しかし、周りの人からは、「あの付近は最近観光用の道路が通る予定だから手放さないだろう。」と言われた。さらには、居住権を買わなければならなくなるだろうとも言われ、「一体いくら持ってるの?」と聞かれる始末。

そのとき持っていたのは30万円。そのお金が高いのか、安いのかすらわからない。相手次第ということだった。その相手が日本人じゃなく、やくざのような人だということ。地元では堅気の人は誰も話をしないらしい。

私は若かったからか、よほど馬鹿だったかわからないが、その人に会いに行った。その人は眼光は鋭く顎から首にかけて傷がある、60も半ばの紳士?であった。そうちょうど今の私くらいの年齢だったと記憶している。

「男の子を立派な日本の父親を育てるために土地を使うということ。」「人を鍛えるためにはモノづくりが必要」だということなどを必死に話したと思う。後で考えれば日本のと言ってよかったかなどいろいろあるが話を聞いた後でその人は、「いくら出すんだ。」と言った。
私は、親や妻からもお金をかき集め100万円を持っていた。言っていいものかどうか迷ったが、かけひきなどわからぬまま、それしかないから「100万円でお願いします。」と言った。その紳士は少しの沈黙のあと「わかった」と一言で話はついた。
若者らにキャンプ場を造るために土地を探す。と言ってから約1年がたっていた。

それから25年。目の前にいるメンバーは25年共に歩んできた仲間である。

昨夜の締めの言葉は、吉田松陰の、
《奪うことができないものは志である。滅びないのはその働きである。》

であった。

高山曜三