「非日常の重要性」

そろそろ夏休みも終わる。とはいえ今年はコロナの影響ですでに小、中、高校生は学校へ出校している。夏休みが終わると、たちまち日常生活の中に引き戻された例年と違って、今年は日常が非日常だ。
例年であれば、8月は非日常が多い季節である。非日常は日常の何倍もの学びをもたらす時と同様に堕落ももたらす。それ故、中高生は特に夏休みに大きく変化する。今年は初めてのことずくめで知らず知らずのうちに非日常が日常になりつつある。
「閑想(かんそう)客観は、志の立たざるによる。一志既(すで)に立てば、、百邪(ひゃくじゃ)退聴(たいちょう)す。」と言う「言志四録」のことばがある。

意味は「つまらないことを考えたり、外の事に心を動かしたりするのは志がしっかり立っていないからだ。一つの志が確立していれば、諸々の邪念はみな退散し聞き従うものだ。」実に厳しい言葉だ。中高生なら、進学の目標。大学生なら就職。社会人なら職場での自分の役割、などそれぞれに目標を立てれば「百邪退聴す」である。
しかし、そのようには容易に行かない。ひとそれぞれどの年齢からか、「志」を持たなければならないことに気づくかは定かではない。
人生には五計あるという。

「生計」如何に生きるべきか。
「家計」如何に家族を営むか。
「身計」如何に身を立てるか。
「老計」如何に老いるか。
「死計」如何に死ぬか。

これは、中国宋時代に生きた朱新仲の言葉である。目標ではその時々に立てるものであるが、「志」は自分の「生」を貫いているものだと思う。それ故そんなに簡単に立てれない。
この非日常の中にこそ「志」のヒントが潜んでいる。
志にしろ、目標にしろ日常の生活の積み重ねの結果から生まれてくる。

高山曜三