「爽快って」

25,26日と塾のキャンプを終えこの夏の行事はすべて終了した。
毎年のごとくこの夏もやりきれなかったことがたくさんある。とは言え、自分のできる範囲のことは全てやり終えた。年々体力の衰えで、できることが少なくなっているのも確かである。

小人が恥じるのは自分の外面である、
君子が恥じるのは自分の内面である。
人間たる者、
自分への約束をやぶる者が
もっともくだらぬ。
死生は度外に置くべし。
世人がどう是非を論じようと、
迷う必要は無い。
武士の心懐は、
いかに逆境に遭おうとも、
爽快でなければならぬ。
心懐爽快ならば人間やつれることはない。

吉田松陰の言葉である。
「爽快」の「爽」は「大きい」という字に「メ」が4つ。大とは両手を広げた人の姿。四つの「乂」は吹き通る旋風。人の周囲をそよ風が吹き通って「爽やか」となるらしい。「快」は篆文は抉ケツの字から夬を取り出して分解した。刀を手に持った形で、刃物を手に持って物に切りこみを入れ、えぐり取ることを示す。抉ケツの原字。単独で使われることはなく、音符として「えぐり取る」等のイメージで用いられる。それ故「快」は心のしこりを抉りとった後の心地よい感じということだろう。

心のしこりを無くし、大の字になって寝て、その上を風が通っていく。それが「爽快」と言う意味だ。心のしこりをとるには「覚悟」が必要である。吉田松陰の言う「死生は度外に置くべし」である。なかなか普通の人間はそうはいかない。なかなか「爽快」まではいかない。

さあ今年の後半もこつこつ積み重ねよう

高山曜三