「憂い」(うれ・い)

先日、保護者2人のお母さんと面談をした。
1人1時間。計2時間は授業より緊張である。お二人とも子供のことをよく見ておられ、今の成績が伸びないことも悩みであるが、将来についての心配をしてみえる。話しているうちに自分の子供の未来に対する考えは正しいのかを確認したいことを語られた、さらに、今の心持を誰かに理解してもらいたいなど、お母さんも疲れている。どこまでその気持ちにより添えるか自信はないが、一生懸命聞いた。

20年近く前、「ひもろぎ苑」を始めたころ、鍵山秀三郎先生から相田みつをの「憂い」という詩の額をいただいたことがある。深く意味を考えることなく、ひもろぎ苑に飾り自慢していたことがある。当時教員でもあったので、生徒にも見せて自慢を語っていた。今考えると「自分は良いことをしている。だから貰えたのだ。という子供じみた慢心に満ち溢れていた。」恥ずかしい人間だった。

改めて「憂い」を考えてみると。「悩むことが多くつらい。苦しい。」などの意味があり、悩んで動きが止まるという意味を持つ漢字らしい。
この詩の中にある「澄んだ目の底にある、深い憂いのわかる人間になろう。重いかなしみの見える眼を持とう」鍵山先生は私にこれを伝えるためにこの額を送ってこられたのだ。「憂い」には「憂い」を感じることのできる人しかより添えない。人(ひと)がより添うから「優しい」となる。理屈では知っていた。

学校法人を辞め立場とか、役割がなくなると、過去と向き合う時間を持つ。過去の自分の愚かさが見えてくる。それぞれの人の抱える「憂い」は、解決しようもないが、なんとか、ともに感じようとする関係の中で、瞳の「憂い」の色もずいぶん変わってくるのではないか。
そんな瞳で子供らが見れるようにならなければ。

高山曜三