「国民」

先日、統一地方選挙の前半戦の投票が行われた。私の知人も立候補していたが、県会議員に当選した。喜ばしいことである。

私は、10数年前まで、政治とか選挙には関心が強い方ではなかった。どちらかと言えば教育の問題だとか、消費税の問題だとか局面局面を是是非非で考え、選挙へ行き投票もした。自分では、国に対する感謝と崇敬の念を持った普通の国民であると思っている。

ところが、どうも「国に対する感謝と崇敬の念」を持っているというとこの国では右翼と安易に言う人がいる。右でも左でもなく、当たり前のことだとなぜ思えないのか。元号が「令和」になったことを喜べとは言わないまでも、なぜ素直に受け入れられないのか。元号は、その国の存立の歴史と独立の証である。年表は2000年ほどの昔から、日本である。その下に元号を書けば今につながる。
「靖国神社参拝の問題」でも、中国や韓国が外交のネタにこの問題にクレームをつけるのは、その手法として理解できる。しかし、この国で平和を甘受している国民が、なぜこの国を守るために命を落とした人々に哀悼の意を行動にあらわすことに反対するのか。その考え、その姿勢を子供や孫に見せることが、いかに愚かなことなのかということに、なぜ気付かないのか理解しがたい。

5,6年前から若くしてこの国の未来を語り、政治家を志す若者が少なからず立候補するようになった。私の知人もその中の一人である。未来の地方を、未来の国を、創るべく行動してほしい。また落選してその職でなくとも志をどの立場で貫くかである。

私は、学校と言う教育現場で30数年。今も社会教育の現場で生きている。自分のかかわる場所で、いかにしたら未来の国民にこの国を伝えていけるのかを考え、行動したい。

「言志四録」から引用する。
「天何の故にか我が身を生みだし、我をして果たして何の用にか供せしむる。我、すでに天の物なれば、必ず天の役あり、天の役供せずんば、天の咎(とが)必ず至らむ。省察してここに至らば、即ち我が身のからくも生くべからざるを知らむ」

 

高山曜三