「非日常の重要性」

もうすぐ夏休みが終わる。大阪府や沖縄県では今週から2学期が始まったと聞いた。
夏休みが終わると、たちまち日常生活の中に引き戻される。少しさみしい思いと、安心感がある。

8月は非日常が多い季節である。非日常は日常の何倍もの学びをもたらす時と同様に堕落ももたらす。それ故、中高生は特に夏休みに大きく変化する。塾の補習講座も終盤を迎え、中学3年生はまだまだ受験生らしくはないが、少しずつやる気が見られるようになってきた。中学2年生は分岐点だ。ここから本来の力を発揮する子と、あきらめて安易に流れる子の差は大きい。

「閑想(かんそう)客観は、志の立たざるによる。一志既(すで)に立てば、、百邪(ひゃくじゃ)退聴(たいちょう)す。」と言う「言志四録」のことばがある。
意味は「つまらないことを考えたり、外の事に心を動かしたりするのは志がしっかり立っていないからだ。一つの志が確立していれば、諸々の邪念はみな退散し聞き従うものだ。」実に厳しい言葉だ。

中高生なら、進学の目標。大学生なら就職。社会人なら職場での自分の役割、などそれぞれに目標を立てれば「百邪退聴す」である。

しかし、そのようには容易に行かない。ひとそれぞれどの年齢からか、「志」を持たなければならないことに気づくかは定かではない。

人生には五計あるという。
「生計」如何に生きるべきか。
「家計」如何に家族を営むか。
「身計」如何に身を立てるか。
「老計」如何に老いるか。
「死計」如何に死ぬか。

これは、中国宋時代に生きた朱新仲の言葉である。目標ではその時々に立てるものであるが、「志」は自分の「生」を貫いているものだと思う。それ故そんなに簡単に立てれない。

意外と8月の非日常の中に「志」のヒントが潜んでいる。志にしろ、目標にしろ堅実な日常の積み重ねの結果生まれてくるものであろう。

高山曜三