「後世の視座に立つ」

3月に自宅の裏にある蓮田に入り農家の人が泥だらけで悪戦苦闘していた。今は蓮がすくすく育ち美しい花を開こうとしている。

「世人は蓮の花を愛して泥を嫌がり、大根を好んで下肥を嫌がる。私はこういう人を半人前という。蓮の花を養うものは泥である。大根を養うものは下肥である。蓮の花や大根は、泥や下肥を好むことこの上なしではないか。世人の好き嫌いは、半面を知って全面を知らない。これまさに、半人前の見識ではないか。どうして一人前ということができよう」

二宮金二郎言葉だ。二宮尊徳の言葉は平易で明快だ。言い換えればわかりやすい。コロナ対策について専門家会議からの報告をする安部首相の言葉は頼りなくわかりにくかった。ネットでは別の専門家が、コロナ対策を語っていた。誰もが困って判断に窮する時、学者の意見を聞こうとするが、我々が勉強不足なこともあり、概ね不明瞭なことが多い。学者の発言としては仕方ないのかもしれない。

「学者は書物を実にくわしく講義するが、活用することを知らないで、いたずらに仁はうんぬん、義はうんぬんといっている。だから世の中の役に立たない。ただの本読みで、こじき坊主が経を読むのと同じだ」とこれまた二宮尊徳の言葉。

学校を9月入学にしてはどうかという議論までとびだしコロナどころではなくなる。本末転倒も甚だしい。挙句の果てにやっぱり4月となり、入試範囲を狭めてはどうかという話が出てくる。それらは受験生のことを考えてだとか。世界の風潮は9月入学が好ましいなどと子供らのことを本当に考えてとの意見だともっともらしいことを言うが、そうとは思えない。

「樹木を植えて、30年たたなければ材木にはならない。だからこそ後世のために木を植えるのだ。今日用いる材木は、昔の人が植えたものだとすれば、どうして後世の人のために植えないでよかろうか」こんなことを二宮尊徳は言っている。

近頃は後世のためにという視点が欠けているとが多い。憲法改正はどうなったのか。これこそ後世の国民のために本気で議論しなければならないことだろう。

高山曜三