夜明けが5時30分頃になった。
寝坊して6時近くまで寝ていると番犬の「華」が顔、手をぺろぺろ舐めてくる。それでも起きないと腕を甘噛みする。仕方なく起きて散歩の支度をして近くの三重県民の森の広場へ行く。
若いころは朝起きる時、今日こそは早く寝ようと思ったものだ。付き合いで深夜まで飲んだり、夜更かしをして好きなことをしているから、朝起きるのが辛くてしょうがない。だから今日こそは早く寝ないとと思い起きる。しかし、仕事を終えて帰宅時になると今日は何をしようかと、朝の反省も忘れると言う20代だった。
30代は寝ても覚めても「ひもろぎ苑」を作ることに頭がいっぱいで、土曜日の夜から山に行き、作業をして月曜の朝、山から出勤と言うことを繰り返した。
40代になると仕事が面白くなり、人生と重ね合わせて仕事に取り組めるようになった。気づいてみると、どこに読書の時間があったのか、時々は本を読んでいた。それは必要な本を読んだにすぎない。それ故、楽しいと感じた思い出はあまりない。
50代になると少し読書の楽しさがわかってきた。
「菜根譚」(さいこんたん)にこんな文章がある。
「徳は才の主。才は徳の奴なり。才ありて徳なきは、家に主なくして、奴、事を用うるが如し。幾何(いかん)ぞ魍魎(もうりょう)にして猖狂(しょうきょう)せざらん。」
訳:人格が主人で、才能は召使に過ぎない。才能には恵まれても人格が伴わないのは、主人のいない家で召使が我もの顔に振舞っているようなものだ。これではせっかくの家庭も妖怪変化の巣窟と化してしまう。
まさしくその通りである。才能ばかり秀(ひい)でても「徳」が無ければ薄っぺらく感じてしまう。私は、自分に「才」と呼べるものはない。さりとて「徳」と呼べるものはあるのかと考えると、まあどちらもないのだから「こつこつ」と積み重ねるしかない。
油断すると「こつこつ」は「ぼちぼち」にかわり、「ぐでぐで」にかわる。63歳になった今日は「こつこつ」だと言い聞かせている。